BPO「光市母子殺害事件の差戻控訴審に関する放送についての意見」

放送倫理機構(BPO)が、光市母子殺害事件(概要はWikipedia参照)のテレビ報道について公正性・正確性・公平性の原則という点から検証を行った報告書。ネット上にアップされているのを読んでみました。何でそんなのを読んだかというと、光市事件に関する一般の人々の反応が過激すぎて、ある意味で狂気を感じるほどで、そういう群集心理にとても興味引かれるからです。ここでの興味っていうのは純粋に個人的な趣味で、まー、怖いもの見たさです。文化大革命とか大好き。

で、この報告書は、そういう自分の興味を大いに満足させてくれました。まず、多くのワイドショー系番組を実際に見て、さらに製作者にアンケートとヒアリングを行う、という実証的姿勢が面白い。委員会では7時間半にわたって光市事件の報道を(それも視聴者の感情を刺激するためだけに作られたヤツを)見続けたらしいです。自分なら「もう止めてくれ」と叫びだしそう。

さらに、この綿密な検証に基づいてテレビ番組制作の問題点を指摘するのですが、その指摘の厳しさといったら特筆モノ。苦言を呈するってレベルじゃない、徹底的な批判。自分の興味に合うところを引用すると、こんな感じ。

「悪いヤツが、悪いことをした。被害者遺族は可哀相だ」という以上のことは、何も伝わってこない。巨大な放送システムを持ち、大勢の番組制作者がかかわり、演出や手法のノウハウを蓄積しているはずのテレビが、新聞の見出しを見ただけで、誰でも口にできるようなことしかやっていない。いったい番組制作者は何を調査し、何を思い、何を考えたのか。被害者遺族が語ったこと以外に、言いたいこと、言うべきことはなかったのか。画面には、取材し、考察し、表現する者の存在感が恐ろしく希薄である。そのような番組しかなかったことに、委員会は強い危惧を覚えないわけにはいかない。

そして、このテレビ批判が、大衆の感情を一方向に暴走させる原因の解明に迫ってるのが個人的には興味深かったです。報道機関としての主体性がないために、世論を読むことばかりが優先され、大衆の感情を燃え上がらせる燃料探しをするのが通常業務になる、という。この「主体性のなさ」はナチスアイヒマン裁判での「悪の凡庸さ」を連想させる話で、BPOとしても多分そこが一番言いたかったんだろうな、と思います。

 先に、委員会が「(本件放送は)被告・弁護団が提示した事実と主張に強く反発・批判した内容となっていた」と、あえて「反発」という言葉を使ったのは、番組の多くがきわめて「感情的」に制作されていた、という印象をぬぐえないからである。冷静さを欠き、感情のおもむくままに制作される番組は、公正性・正確性・公平性の原則からあっという間に逸脱していく。それはまた、民主主義の根幹をなす、公正な裁判の実現に害を与えるだけでなく、視聴者・市民の知る権利を大きく阻害するものとなる。
 委員会が憂慮するのは、この差戻控訴審の裁判中、同じような傾向の番組が、放送局も番組も制作スタッフもちがうのに、いっせいに放送されたという事実である。取材や言論表現の自由が、多様・多彩な放送に結びつくのではなく、同工異曲の内容に陥っていくのは、なぜなのか。

冗談抜きで日本が文化大革命な時代にならないように、BPO報告書の指摘を放置せずに、テレビ番組制作の現場に反映させる方法を議論しておくことが必要じゃないすかね。