オタクもサブカルもいないって話

よく「オタクが薄くなった」とか「サブカルがオタクに流入した」とか「新たなオタク層が誕生」とか、そういう話があるじゃないですか(一部で)。そういうのを読むたびに、共同体(トライブ、族)としてのオタクやサブカルが現役で存在してるという暗黙の前提を感じて、違和感があるんですよ。だって、オタクやサブカルという共同体はもう実質的には存在しないと散々言われてきたわけで。

誰かが「オタク」であるかないかなど、最初からどうでもよく、単に「アニメが好き」「ゲームが好き」「マンガが好き」でいいだけの話です。
岡田斗司夫氏の次の本『食べても太らない男のスイーツ』 - 伊藤剛のトカトントニズム

宮台真司らが1993年に刊行した『サブカルチャー神話解体』(パルコ出版)は、80年代に世間に浸透した総合的な若者文化としての「サブカルチャー」がじつは幻想にすぎず、実際はそれぞれのジャンル内において、文化の受容層のあいだでタコツボ化が進んでいる現実を指摘していた。宮台のみならず多くの人が、90年代以降、若者文化のそれぞれの分野の中で受け手が孤立化・タコツボ化していることを指摘しつづけている。
再録:八〇年代・サブカルチャー・雑誌 - 海難記

以上にあるとおり、趣味を基盤にして自己規定される共同体意識は共通して弱くなっていて、少なくとも、「オタク」や「サブカル」なんて共同体は消えたはずじゃなかったのかと。


その前提に立てば、最近盛り上がってきたある文化ジャンルのファンを、「超ライトオタク層」や「第四世代オタク」なんていう新たな共同体名でラべリングする必要性が全く理解できないんですよ。単に、コスプレとクラビングが好きな人たちが集まって面白いイベントをやってるよ、でいいじゃん。実態のない言葉を持ってきても話が訳分かんなくなるだけから、もう「オタク」や「サブカル」を主語にして話すのは止めたらいいと思うんだよね。

「オタク」という言葉がかぎりなく軽くなった時代には、「脱オタ」などということも意味をなくし、「オタク」という言葉をめぐるアイデンティティの葛藤が、いかにも古色蒼然としたものとして語られることでしょう。
「脱オタ」が無意味になる時代は来るか? - Something Orange

これ、未来形ではなくて現在形で書いていいんじゃないかなあ。さらに付け足すと、いくつもの趣味を並列に持つ個人個人を、恣意的な枠組み(アニメ好きとか)を使って単一の共同体として把握する、つう手法自体がもう既に古色蒼然としてて実態に合わないと思うのです。


自分のような考えのことをなんて言うんだろ。個人主義思想?


追記:形容詞だと違和感ないんだけど。オタクっぽいとかサブカル臭とか。あ、だから「オタクっぽい奴」と言えばいいのか!これなら共同体と認識されないし。